インタビュー:ビクトリノックスな人々 チベット歴史文献学者 今枝由郎
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ブータンを訪れるたびに欠かさず用意したもの。さようならの代わりにプレゼントしたもの。

ブータンでは宝物

ブータン国立図書館
鎖国政策のブータンに入る。
 私が初めてブータンに入ったのは、1978年です。当時、ブータンは鎖国政策をとっており、現在のように外国人が自由に出入る状況ではありませんでした。もちろん、航空機もなく、空港もありませでした。インドからブータンの首都ティンプに入るには、国境の街プンツォリンを経由するしかありませんでした。当時、私は毎年フランスからインドに渡り、ニューデリーに滞在して、入国申請をしていたのですが、なかなか認可されませんでした。しかし、国立図書館長の仲介で国王に直訴してようやく念願のブータン入りを果たしました。プンツォリンには大きな門があり、ブータン側とインド側では、身につけているものも言葉も大きく異なります。わずか何百メートルの街路をゆく間に、これほどまでに文化の違いを体験できる街も珍しいのではないでしょうか。プンツォリンからティンプーまで車で6時間、航空機が就航しているいまではちょっと信じられない長旅かもしれません。
密林に覆われた秘境で。
 ブータンに赴き、当地ではめったにみられない、キッチン、シャワー付き設備の整った立派な一軒家を貸し与えられ、国立図書館顧問という肩書きを拝命しました。ブータン政府から与えられたこの身分のおかげで、ブータン国内を自由に見聞できました。NHKのテレビ取材班が初めてブータンを訪れたときも、通訳兼案内役を務めるなどの珍しい体験もしました。このドキュメンタリー番組をご覧になった方なら、ブータンがどんな国かお分かりいただけるでしょう。ヒマラヤの南側に位置するブータンは、人口60万あまり、九州を一回り大きくしたほどの面積をもつ小国ですが、豊かな森林と肥沃な土地を持ち、自給自足できるアジアでも恵まれた国の一つです。ブータンは、沖縄とほぼ同じ緯度に位置します。北は7000メートル級のヒマラヤの峰々から、南は標高150メートル程度の亜熱帯のインド平原との接点まで、全国土は密林に覆われた斜面からなっています。
ティンブ滞在時代の我が家
私を行動的にした2つのツール。
 そんな秘境ブータン滞在中に手放せないものが4駆車とビクトリノックスでした。4駆車はブータン政府から必要機器の一部としてあてがわれたもので、後者は自分の財布から出したものです。ビクトリノックスは1972年以来の愛用品です。一番重宝するのは、屋外でキャンプをしたり、ピクニックをするときです。いくつもの機能が一つにコンパクトに納まっているので、それぞれの道具を持ち歩く必要はないし、あちこちを探しまわる必要はありません。ハサミのように梱包に困るものでもきれいに納まっていて危険がありません。ビクトリノックスを一本もっていれば、たいていの用は足ります。なかでももっとも基本的なものはナイフでしょう。次に缶切り、せん抜き、ハサミ、刺抜き、爪楊枝といったところではないでしょうか。
首都ティンブ
ブータンへの旅支度に欠かせないもの。
 私はフランスからブータンに赴くとき、必ずといっていいほど、当時住まいのあったパリのショップでビクトリノックスを1本調達し、持参していくことにしていました。ときには数本買い込むことがありましたので、1990年までのおよそ10年間に、十数本以上も購入したことになります。ブータン滞在といっても、実は一年中国内にじっとしているわけではなく、フランスとの往復に加え、日本ともしばしば往き来する日々でした。ティンプを一歩離れると、現代の物質文明とはおよそかけ離れた世界がひろがっています。お店と呼べるものはほとんどありません。必要なものはすべて自分で用意しなければならないのです。これが地球に残された最後の秘境と呼ばれるゆえんかもしれません。ブータン国内で活動するときは、ビクトリノックスが旅のお供として必需品になるのです。愛用していたのは、もっとも古典的なタイプで、ハサミ、せん抜き、ワインオープナーなどがついたものでした。
竹ペンを削る道具として。
 そして数ヵ月滞在した後、いったんブータンを離れるとき、私はお世話になった人にビクトリノックスを差し上げることにしていました。思い掛けないプレゼントにブータン人の喜びようといったらありません。それは、次の機会に再会したとき、ゴ(ブータンの男性用民族衣装)の懐にビクトリノックスをしのばせていることからも、推して知るべしです。彼らにとって、それは最高の宝物なのです。そんなわけで、ブータン行きの準備はビクトリノックスを購入することから始まったのです。
 ある日、こんなこともありました。私が属するブータン国立図書館の館長もビクトリノックスの大ファンでした。その使い方は一風変わったものでした。竹ペンの愛好家であった館長は、すり減って丸くなったペン先を削るためにナイフを使っていました。いつも大事そうに扱っていたので、どうしたのかと尋ねたところ「皇太后からのプレゼント」という返事が返ってきました。その満足げな様子に、ビクトリノックスに対するすべての答えがしまい込まれているように思いました。

ブータンは仏教国 仮面の踊り

今枝由郎(いまえだ よしろう)
1947年、愛知県生まれ。大谷大学文学部卒業。パリ第七大学国家文学博士号修得。1974年からフランス国立科学研究センターに勤務。主任研究員。1981年〜1990年ブータン国立図書館顧問としてブータンに赴任。主な著書・訳書に『ブータン』(大東出版社)、『ブータンのツェチュ祭』(平河出版社)、『囚われのチベットの少女』(株式会社トランスビュー)、『サキャ格言集』(岩波文庫)ほか多数。現在、フランス在住。
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